日本でポテトチップスが誕生し、量産化されるまでの歴史

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日本のポテトチップス前夜:戦後から「フラ印」の登場まで

日本でポテトチップスが本格的に作られるようになるのは、第二次世界大戦後のことです。アメリカ軍の駐留などを通じて、本場のスナック菓子文化が日本国内へ少しずつもたらされていきました。

日本におけるポテトチップスの商業生産の先駆けとなったのは、1950年(昭和25年)、東京・牛込にあった「アメリカン・ポテトチップ(のちのフラ印)」というブランドです。ハワイで育ち、アメリカの食文化に詳しかった創業者らが、日本で日本人向けのポテトチップスの製造を開始しました。

当時はまだ一般のスーパーやコンビニエンスストアという流通網はなく、米軍基地の売店や、都内の限られた高級スーパーなどで販売されるにとどまっていました。この頃の味は基本的にシンプルな塩味であり、まだ一部の人たちが楽しむハイカラな外国風のお菓子という位置づけでした。

湖池屋の参入と、日本初「のり塩」の誕生

1960年代に入ると、日本の大手食品メーカーが本格的なポテトチップスの製造・販売に乗り出し、お菓子としての大量生産と全国への流通網が急ピッチで整えられていきます。

この時期、日本市場において歴史的な転換点となったのが、1962年に湖池屋(コイケヤ)が発売した「コイケヤポテトチップス(のり塩味)」です。当時、まだ手作業や小規模なフライヤーで作られることが多かったポテトチップスですが、その発売から5年後の1967年、湖池屋は日本の菓子業界で初めて本格的な量産化に成功しました。

特筆すべきは、海外からの輸入品のようなただの塩味に頼るのではなく、日本の食卓に馴染み深い「青海苔」と「焼き海苔」を組み合わせた「のり塩味」を最初から選んだ点です。この独自の工夫は日本人にとって圧倒的な親しみやすさを持って迎えられ、ポテトチップスを一部の洋風スナックから「日本の国民的おやつ」へと押し上げた最大の原動力となりました。

カルビーの参入と、全国規模の大量生産体制

1970年代に入ると、もうひとりの巨大なプレイヤーが市場に参入します。1975年、カルビーがポテトチップス(うすしお味)の販売を開始し、のちに全国へと展開していきました。

これを機に、ポテトチップスの生産は文字通りの「工業化・大量生産」の時代に突入します。カルビーは北海道をはじめとする全国のジャガイモ農家と強固な契約栽培のネットワークを築き、安定した原料調達を実現しました。さらに、季節ごとに一番状態の良い産地を巡る「産地リレー」の仕組みを確立し、1年を通じていつでも均質な品質のポテトチップスを全国の小売店へ途切れなく供給できる体制を完成させました。

また、1970年代後半には、定番の「うすしお味」に加えて、1978年にカルビーが「コンソメパンチ」を発売します。肉や野菜の旨味を凝縮したパウダーを合わせるこの洋風フレーバーは、高度経済成長期を経て洋食の味に親しんでいた当時の子どもたちや若者を中心に爆発的な人気を集め、「のり塩」と並ぶもう一つの柱として定着していきました。

おわりに

戦後の東京でひっそりと生まれた小さな塩味のポテトチップスは、1960年代の湖池屋による「のり塩」の誕生と量産化を経て日本独自の道を歩み始め、1970年代以降の大手メーカーによる大量生産・流通網の確立によって、私たちの日常に欠かせない定番のおやつへと成長していきました。

何気なく開けている一袋の背景には、日本のメーカーが積み重ねてきた技術の歴史と、日本人の味覚に寄り添うための細やかな工夫がしっかりと息づいています。